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有馬山叢 御所別墅
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有馬山叢 御所別墅
〒651-1401
神戸市北区有馬町958

TEL:078-904-0554
FAX:078-904-0970
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有馬山叢御所別墅

有馬山叢 御所別墅  GOSHO・BESSHO

有馬温泉鼓ヶ滝 有馬温泉で一番マイナスイオンが発生している鼓ヶ滝に向かう滝道沿い。
かつての関西財閥の別荘跡の敷地に、全室離れサーマルスイート10室の宿が誕生しました。
鳥のさえずりが非常によく聞こえる緑豊かな所です。
神戸港が開港し、多くの外国人が有馬にやってきた時代のように、国際的な温泉リゾート地にふさわしい施設を目指しています。
その為に、東洋と西洋の両方の視野に立って、改めて日本の“宿”を考えました。
デザインの監修は,、
無方庵の号をもつ綿貫宏介氏。氏は昭和三十年代にポルトガル、スペインで十数年間滞在し、創作活動を行ってきました。
西洋の良さと東洋の良さを両方バランスよくいかせる数少ない美術作家だと思います。
無方庵 綿貫先生氏は神戸の大手菓子会社「本高砂屋」や丹波の銘酒「小鼓」大阪の心斎橋「宇治園」日本を代表する日本製のワインで有名な「勝沼醸造」など多く小会社のデザインや商品作りにかかわっておられます。
有馬山叢 御所所別墅の館内の書画はすべて氏の作品で、額から飾る場所まで指導してもらいました。
そしてイスやテーブルは、氏がデザインして木工作家が天板をつくり、鍛鉄作家が足をつくる。馬具の職人が皮を張る・・・
というように、氏の感性をコンセプトにクラフトマンたちが共同でつくりげました。
またカーテンや絨毯等のセレクトも氏が行いました。
御所坊や花小宿とは、また違った雰囲気を楽しんで頂けると思います。


開慶応3年12月7日(1868年1月1日)、兵庫は正式に開港されました。

外国人たちは居留地から10里の範囲しか遠出を許されなかったそうです。

有馬温泉はちょうどその範囲内にあり、六甲山を越えて多くの外国人貿易商や宣教師が有馬温泉にやってきました。

明治5年(1872)にすでに、アメリカ人宣教師 ディビス が、有馬で避暑を楽しんだという記録が残っています。

外国人たちは京都、大阪、神戸から宣教師、外国商館で働く人々、香港、上海からの観光客など、家族連れでぞくぞくと避暑や保養にやってきた。
そして有馬に外国人専用ホテルが次々と出来ていったのです。

清水ホテル は 温泉街から 有馬里駐車場 に向か道沿い、月光園を過ぎて右手の白いテントが張られた塀の中にあった。
その 清水ホテル の襖の下張りから古い宿帳が見つかったという。

明治9年6月4日
神戸三十八番、客、男洋一人来る。一泊り。
同年6月6日
神戸三十八番、客、洋人一人、ホヲヒナンキン一人、〆二人来ル。三泊り。
同年6月10日
大阪川口、洋人マクラフド一人来ル。一泊リ。
同年6月24日
神戸三十八番、男、洋人客二人来ル。一泊リ。
神戸二十五番、男、洋人一人、女洋人一人。
八十二番、男、洋人一人、ぺぺ一人、ポヲヒ忠太郎、ママトシ、〆六人来る。一泊ル。

このような宿帳だったそうだが、ホオヒはボーイの事。ナンキンは中国人を指すそうだが、ママトシとは何のことだろう?
どなたかわかる人おられますか?

・・・別の資料を見たら、ママトシでなくアマトシ。つまりお手伝いのトシさん

有馬温泉 の 金の湯 からマス池に向かうと月光園の隣、現在駐車場になっている所に 増田ホテル が慶応年間の末に開業した。奥が 清水ホテル 。向かいが 杉本ホテル 。当時この界隈は外国人のリゾート地という様相だったのではないだろうか。
  明治に入り6月から9月までに4ヶ月間 香港・上海から外国人が九州雲仙を見物して有馬に来て、大変な賑わいを見せた。
そこで 増田ホテル では客を収容しきれないので、近くの キングジョージホテル を大正二年から三年間の契約で借り受けて経営したという。
その頃は神戸のイギリス人オリバア・エバンス商会主やトーアホテル(現神戸外人倶楽部)の支配人ルーツ。
同志社女学校の デントン女史 が再三訪れている

現在の旅館やまとの駐車場のところにあった。
明治10年頃建てられ、杉本時松と次女よねが経営していた。
本館三階建で道を挟んで別館があり、客室数は15 昭和14から15年頃まで続いていたが、客が多くてマーチン邸を一時借りて経営したこともあるという。
香港、上海からの外人が主で、一ヶ月以上滞在の予約をしてやってきたという。
閉鎖する前は亡命のロシヤ人が多く、部屋は開放的で鍵をかけなかった。
庭でよく食事をし、風呂は五右衛門釜で生温かく湧かしたものを浴びていたという。
この話から、ホテル花小宿は五右衛門風呂を導入した。
親切に接待した女中さんは外人に連れられて上海に遊びに行ったことも有るという。
その頃の外人滞在期間はほとんどが6月から9月までの四ヶ月間で、その他の季節はわずかだった。
コックも夏だけ勤めたものが多かった。
外人は主にアメリカ人。
杉本ホテル の女主人よねさんは英語が上手で、外国人客に対して日本人離れした流暢な英語での接客ぶりはすばらしかったという。

朝食のメニューはオートミールからボイルド玉子、ベーコンを出し、外人客の中には○分でボイルせよという注文を出す人もあったという。
六甲とスイスの気候、温度がよく似ていたので、スイス料理で名のあった牛肉の生肉料理をオードブルで出してお客さんに喜んでもらったという。それは六甲の寒風に当てて、塩と硝石の粉末を混ぜてもみ、温めた塩水の中に一ヶ月程漬けておく。その上また寒風に晒して出来上がり。
有馬温泉 から六甲の農家に持っていき適当な時期に取りに行って提供したという。

稲荷山ホテル は杉が谷にあった 有馬稲荷神社 の跡地か当時まだ社殿があった裏手斜面に、明治18年(1885)に洒落たコロニアルスタイルの建物が三棟並んで建てられた。いずれも外国人専用の2階建ての貸し別荘だった。残された1枚の写真には外国人宿泊者と思われる人々が写っている。左の建物のベランダには白い長袖を着た男性が3人ともうひとり。右の建物のベランダには女性と思しき人々7人ほど写っている。その中心には帽子をかぶった婦人が赤ちゃんを抱いている姿がある。有馬で夏を過ごした宣教師や貿易商の家族が宿泊していた様子が想像できる。
神社には、「 稲荷山ホテル 三棟落成」の顛末書証が残されている。そこには『明治18年1月30日 工事落成付 遷座式行い』などの記述が見られる。遷座とあるので神社を建替えたとき、同時に 稲荷山ホテル も落成されたのかもしれない。

ハランド女史 の思い出

啓明学院の前身、パルモア女子英学院の初代院長のC.G. ハランド女史 (Charlie George Holland)は、大正末期から昭和初期にかけて、現在ある 有馬稲荷神社 の社務所兼自宅の2階を借りて夏を過ごしていた。部屋の押し入れを改造してブリキの板を張ってシャワーを使っていたという。

ハランド(フォーランド)女史のことを知る稲荷山神社、児玉宮司の従妹、西井義子さんは、小さいころお母さん(ことみ・宮司の叔母)が炊事場に立ってよくフォーランド先生と話をしていた。義子さんはお母さんの袖を引っ張りながら一緒にいて、カタコトと菜っ葉を刻む音を聞いていたことを記憶している。

ことみさんから聞いた話によると「フォーランド先生はハンモックに乗っていつも本を読んで、涼しげに有馬の山の森林浴を楽しんでいた。またオルガンをよく弾いておられた。奥さまは土曜日の夕方にはケーキ作りを私たちに教えて下さった。トランプゲームのツー・テン・ジャック(2と10と11を集めていくトランプゲーム)を、皆で喜んでワイワイ言いながら遊んでいた。それはすばらしい欧州と日本の交流の場だった。」と。

宮司の叔父、児玉尊臣(たかふみ)は歌人であり三田の郷土史家でもある。 有馬稲荷神社 で過ごした美しいハランド先生と一緒に鼓ケ滝の前で撮った写真が残っている。男性はカンカン帽に大島絣や麻の白い絣を着ている。(麦ワラの茎を使った麦稈を真田織にした帽子をカンカン帽といった)カンカン帽に麻の着物、大正時代の懐かしい夏の風俗だ。

女史は、すっかり有馬を気に入って、元国鉄有馬駅近くの山沿いに別荘を建てようと、約240坪の土地を99年契約で借地していたこともあるという。稲荷山神社には、大正11年(1922)11月から昭和6年(1931)5月20日の日付が記された借地権更新の領収書があり、地祖割と地祖附加税が2銭、雑地租が1銭となっている。

有馬温泉 の主要な泉源の一つ、有明泉源の横にあり、大阪の藤本清兵衛が経営していた。
明治四十年七月設立された大日本ホテル株式会社は京都の都ホテルを中心に奈良ホテル等を所有し、その1つとして 有馬ホテル は吸収された。
その頃、100名以上収容できるホテルといえば、帝国ホテル、富士屋ホテル(箱根)都京都、オリエンタル トーア(神戸)などで、それらのホテルには及ばないが、24の客室があった。

時々ダンスパーティーが開かれ、ベビーゴルフ、玉突き台も設けられていた。
平屋建ての大広間でビヤーホールが開かれ、外国人にまざって日本人も乾杯をあげたという。

当時、国鉄有馬駅の近くに大日本ビールの炭酸工場が完成、そのレセプションは同ホテルで開催された。
昭和二年。 蒋介石 が 有馬ホテル に宿泊し宋美麗をみそめて婚約したという話は、有馬では有名だ。
蒋介石 が宿泊し有名になったものの経営はうまくいかず、昭和四年解散。
本店の都ホテルは独立。
有馬ホテル は大阪の今橋柳広之が買い取り、 増田ホテル の増田宇三之助が経営に乗り出した。

昭和13年の阪神大水害でホテルの後ろの竹薮が崩れ建物も壊れて一部が流出、閉鎖するに至った。
昭和十五年神戸電鉄がその土地を買って、三十八年に兵庫相互銀行に売却、現在は老人マンションになっている。

明治八年新島襄と協力して同志社大学を創立したアメリカ人宣教師 ジェー・ディ・ディビス が明治六年夏有馬に避暑に来て、 日本語 の伝道書を作る計画をたてた。
それが 有馬温泉 とキリスト教との結びつき。

摂津三田教会百周年記念史によると「明治十三年八月一日安息日礼拝後有馬より招いたゴールドン牧師により聖餐式を行う」と記載されている。十三年にはゴールドン牧師がすでに有馬で布教していたということになる。
明治三十二年宣教師英人マリー・テーラーによって滝本町の一民家を改造するまで、現在の森下仁丹寮の向かいで日曜学校が開かれていた。
カードを配り、幻燈をして風琴をならして「神の子よ叫べ、歌へ」と歌って布教につとめた。

(聖公会の宣教師たち  杉本ホテル にて)
その後愛宕山の町公会堂を利用して時々礼拝が行われた。
明治三十六年七月十七日から十日間夏季修養会が開かれ、全国からキリスト教徒が集まり、当時の町長が斡旋して 念仏寺 ? 、 極楽寺 ? の部屋を借りて宿泊させた。
その事が本山の知恩院に知れ、他教信者、まして異教徒を泊めるのはもってのほかと、浄土宗管長大僧正名で懲戒申渡書が 念仏寺 ? と 極楽寺 ? に送られてきたという。

明治四十三年十月米国人宣教師アール・エー・タムソンが有馬町鼓山1703の土地を町から20年の期限付きで借りて、建物をたてキリスト教会堂(水道局事務所)として使用していた。
大正初期毎年一週間から二週間にわたって全国夏季修養会が開かれ、大正三年開かれた時には神戸教会アツキンソン牧師が来て全国から1.000人の人が集まったという。

蒋介石 と 有馬ホテル
  1927年9月29日、上海丸で長崎に着いた 蒋介石 は雲仙に向かった。10月3日には神戸に着き、在住の華僑から歓迎を受けたのち、車で 有馬温泉 の「 有馬ホテル 」へと急いだ。

有馬ホテル には、宋美齢(そうびれい)の母、倪桂珍(げいけいちん)と宋子文(そうしぶん/美齢の兄、中華民国財政部長)が滞在していた。 蒋介石 が雲仙、神戸と倪桂珍を追うようにやってきた目的は宋美齢とのと結婚に、母親の許可が必要としたためだった。倪桂珍は足を悪くしており、雲仙ホテルに逗留していたが、いっこうに回復の兆しがなく、神戸の華僑の人に 有馬温泉 がいいと聞き療養していた。

 倪桂珍のお世話は 有馬ホテル の経営者、増田卯三之助の長女がしていた。当時の 温泉 地はどこも内湯はなかった。有馬も一の湯、二の湯という 外湯 しかなく、倪桂珍が入浴するためには、ひとつしかなかった 元湯 から 温泉 湯を樽で担いで運ばなければならなかった。朝と夕方、2回、入浴し、3日目には足の痛みが引き、一週間するとまったく痛みを感じなくなったという。そこへ 蒋介石 が訪ねてきた。

「 有馬ホテル 」は当時、夕食付で宿泊費が3円50銭のとき、 蒋介石 は「まことに些少だが」とお茶代として300円を差し出した。当時としては大変な金額だったので卯三之助の妻、増田ちよさんも当時、同志社中学3年だった息子の寮さんも非常に驚いたと語る。

蒋介石 は6台の車を連ねてやってきた。軍部、警察、新聞記者など大勢やってきて有馬は大変な騒ぎだったらしい。日常の警戒も厳重で、 蒋介石 の部屋に出入りできるのはお世話をしていたちよさんだけだった。革命の寵児もちよさんには心を許し、姉のように接していた。顔を合わせると上品なユーモアやジョークを飛ばし、笑い声が絶えなかったという。寮さんが一目 蒋介石 を見ようと、母親の後について部屋に入っていくと、 蒋介石 は寮さんを鋭く睨んだ。その眼は恐ろしく鋭く厳しかったという。母親のちよさんが「息子の寮です」と紹介すると、表情を和らげ「ああ、おぼっちゃんでしたか」とにこやかになった。だが、寮さんはあまりの眼光の鋭さに驚いて急いで階段を下り、自室に引きこもってしまったという。

 ちよさんが三時のお茶を持ってあがったら、倪桂珍の部屋から出てきた 蒋介石 が「お母さん、話ができたよ。できたよ」と何度もいうのだが、何のことかわからず、 蒋介石 は隣室の自室にもどると「宋美齢のお母さんが婚約を許してくれた。そうだ、これからお母さんと約束した書を書くから、筆と墨を持ってきてくれ」といった。寮さんは、筆と墨をちよさんについて持って上がると 蒋介石 に墨をするようにといわれ、すり方まで教えてもらったという。

 そして、最初に書いたのが、母へ対しての贈り物の書「千客万来」。その次が「黄掃千軍」。 蒋介石 はじっと考えて、今度は小さい紙をくださいと言って「革命」「平和」「平等」と続けざまに5枚書き中正の印を押した。そのときの書で有馬に現存しているのは、極楽寺にある「平等」という字のみで、「千客万来」「革命」「平和」は現在、所在不明となってしまっている。

 10月5日、 蒋介石 から婚約指輪を受け取った倪桂珍は、結婚式の準備のため上海に帰っていった。 蒋介石 はその後も宝塚、奈良、神戸、大津、箱根、湯本、芦ノ湖、河口湖、熱海、伊東、東京などを旅し、昭和初年の日本社会を観察し、田中義一首相、政財界、軍関係者とも会談し、約40日の訪日を終えて11月10日に上海に戻った。そして1927年12月1日に宋美齢と結婚式を挙げた。上海のフランス租界にある最高級ホテル、マジェスティック・ホテルの舞踏会場には3000人を越す客が招かれ盛大な披露宴が催された。

 1975年4月5日、 蒋介石 は88歳で他界する。増田夫妻は、1986年10月に台湾で行われた「 蒋介石 生誕百周年記念祭典」に招かれることになった。台湾亜東関係協会の駐日代表だった馬紀壮(ばきそう)夫妻が招待の意を示すために増田家を訪れ、仏間に飾ってあった「黄掃千軍」を見て、 蒋介石 の書に間違いないと証明した。その「黄掃千軍」の書は、記念祭に持参して 蒋介石 記念館である台湾の中正記念館に寄贈してきた。増田さんは国賓として招かれた人だけに贈られる宋美齢が描いた水彩画の画集をプレゼントされた。記念祭には、宋美麗も出席した。8年ぶりにニューヨークから台湾に戻ったが、1991年、再びニューヨークへ旅立ってしまった。そして2003年10月23日、106歳で華麗な生涯を閉じた。





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