僕の「玩具の夢」はとてもすっきりしたイメージだ。玩具に対する夢であると同時に、玩具自身が見る夢でもある。「玩具の夢」は、「子供の夢」とつり合い、響きあっている。子供が夢を見るように、玩具もまた夢をみるのだと僕は思う。ふたつを結びつけているのは、子供の心に深く内包されている《遊び》である。その心の内の《遊び》が外に出て、具体的なカタチになる。遊びたいという希望と、遊ばれたいという希望が、子供と玩具を結びつける。遊びたいという希望と、遊ばれたいという希望を同時に突き動かしているものが、自分をもっと解き放ちたい根本的な欲求であるならば、玩具と《遊び》に対する関心もまたその欲求とともにありつづける。
玩具と《遊び》
は祭りのように伝承されながら、くり返し子供によって体験される。子どもにとって、玩具を欲しがること、それを手に入れて遊び尽くすこと、飽きてしまって離れていくこと、時間を隔てて再会することといったすべてが、自分を見つめ、自分を表現し、解放し、肯定し、生きていくうえでの大きな力になるだろう。玩具にとっても、望まれ、得られ、遊ばれ、こわされ、すてられ、忘れられ思い出されるということのすべたが、内在的な価値をもつものだと信じられる。大人は子どもに戻れないけれど,玩具は年齢や世代を超えて存在しつづける。その玩具と向き合えるとき、僕たちも自分の内部で生きている子どもを体験することができる。思い出された瞬間に玩具はその場でよみがえる。
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